スプリングバレーの苦境と失敗の要因
キリンビールのクラフトビール事業が厳しい状況に直面している。主力ブランド「スプリングバレー」の販売不振が顕著となり、2023年の野心的な目標は大きく未達に終わった。当初、前年比70%増以上を目指していたが、実際の結果はわずか0.1%増の170万ケースにとどまった。さらに2024年に入ってからの状況はより深刻で、1月から9月の累計販売数量は前年同期比で31%も減少している。
この失敗の主な要因は、クラフトビールの本質と相容れないマーケティング戦略にあった。キリンビールのクラフトビール事業部長・大谷哲司氏は、「効率よく大量生産し、大量のCMを投下して飲んでもらう(『一番搾り』のような)商品のマーケティング手法を踏襲してきてしまった」と分析している。この戦略により、スプリングバレーは多くの消費者にとって「名前は知っているけど買わない」ブランドとなってしまった。クラフトビールの魅力である「歴史・文化・創造性」が、大量生産・大量宣伝の手法と相容れなかったのである。
新たな戦略:クラフトビール事業部の設立とマーケティング改革
この状況を打開するため、キリンは2024年10月にクラフトビール事業部を新設した。これは従来のマーケティング部や営業部に分散していたクラフトビール関連業務を一元化する試みである。同時に、資本業務提携先であるクラフトビール大手・ヤッホーブルーイングから初めて2名の出向者を受け入れ、売り場づくりやイベント開催などでの連携を強化する方針を打ち出した。
マーケティング戦略も大きく転換する。テレビCMへの大規模投資からWeb広告へのシフトを図り、タレントの起用方法も再考する。さらに、クラフトビールの魅力を直接消費者に伝えるため、飲食店やイベントでの体験機会を増やす取り組みを強化する。これにより、缶商品の売上増加につなげるサイクルの構築を目指す。
業務用市場への注力も重要な戦略の一つだ。クラフトビール専用の業務用サーバーの導入に力を入れ、ビールと料理のペアリング提案など、付加価値の高いサービスを展開する。居酒屋やバルなどへの営業を強化し、業務用と家庭用市場の相乗効果を狙う。
スプリングバレーの原点回帰とクラフトビールの本質
スプリングバレーは、ビールの大量生産に対する疑問から生まれた商品だ。2011年の構想開始時、「ビールは味がどれも同じ」「ワインや日本酒に比べて安っぽく工業的」といった世間の評価に対する反省から誕生した。当初は業務用市場に注力し、料理とのペアリング提案や他のクラフトブルワリーとのコラボレーションなど、草の根的な普及活動に力を入れていた。
しかし、2021年に家庭用缶商品「スプリングバレー 豊潤<496>」を全国発売したことで、大量生産・大量広告の路線へと転換。これが当初の理念と相反する結果を招いた。クラフトビールの本質は、ヤッホーブルーイングによれば「小さな醸造所が造った、造り手たちの革新性から生まれた多様な味わいのビール」である。キリンのような大手メーカーが製造するスプリングバレーは、この定義と矛盾する面があり、「大手メーカーが大量生産するクラフトビール」という概念自体に、消費者の違和感を招く要素が含まれている。
今後の展望と課題
キリンのクラフトビール事業、特にスプリングバレーブランドは、大きな転換点を迎えている。大量生産・大量宣伝モデルからの脱却と、クラフトビールの本質的価値への回帰が、今後の成功の鍵を握る。大谷氏は「スピーディーに量を売るのではなく中期的に取り組む」と述べており、短期的な数字にとらわれない姿勢を示している。
スプリングバレーの元々の理念に立ち返り、クラフトビールの本質的な魅力を伝えることが、ブランドの再生に不可欠だ。同時に、キリンの持つ資源や技術力を活かしつつ、クラフトビールの個性や多様性を損なわない製造・販売方法の確立が求められる。
新設されたクラフトビール事業部を中心に、マーケティング戦略の見直し、業務用市場への注力、体験型マーケティングの強化など、多角的なアプローチが始まっている。これらの取り組みが実を結び、スプリングバレーが真の意味でのクラフトビールブランドとして消費者に受け入れられるか、業界関係者のみならず、ビール愛好家たちの注目が集まっている。
キリンにとって、クラフトビール市場での成功は単なる売上増加以上の意味を持つ。それは、ビール業界全体の多様性と創造性を高め、日本のビール文化をより豊かなものにする可能性を秘めている。スプリングバレーの再起は、日本のクラフトビール市場全体の発展にも大きな影響を与えるだろう。
今後、キリンがどのようにしてクラフトビールの本質と大手メーカーの強みを融合させていくのか、その取り組みに注目が集まる。消費者の嗜好の変化や、クラフトビール市場の動向を見極めながら、柔軟かつ戦略的なアプローチが求められる。スプリングバレーの再生は、日本のビール業界に新たな風を吹き込む可能性を秘めており、その行方を我々は今後も注視していく必要がある。